今回はかなり真面目な内容です。 いつも真面目じゃないのかよっっていう突っ込みは勘弁ね 「死んだらどうなるんだろう」 これは小さい頃からずっと思ってきた。この問いに対して 自分はある程度答えであって答えでないような結論がある。 これは小学生の頃に出した結論を後に学んだ事柄で補填したものである。 まずこの問いに答えるために死を定義がおのずと重要になってくる。 たとえば解離性人格障害(いわゆる多重人格のこと)の人がいたとしてその中の一性格が何らかのきっかけで消滅してしまったとする。これは死を意味するのであろうか。 もしくは脳挫傷によって植物状態になってしまった人や強烈な精神的ショックで性格ががらりと変わってしまった人などはどうなるのだろうか。 こうして考えると死と生の間のなす境界をデジタルなものにするためには何かしらの絶対的基準が必要になってくる。 そこで自分は昔から死というものの定義を「主体の消滅」で定義してきた。こうすることで日常的に用いている死の意味と難なく共存できるし、基準も明確になる。 さて、死を主体の消滅と定義したとき面白いことが起こる。そこでまず主体の存在がどれだけ大きな意味を持っているかを説明しておきたい。 (ここではあくまで死を科学的に説明したいという欲求のもとで考えているわけであって、科学的視点という側面を抜きにして語れないことは承知してもらいたい) 科学には主体の存在がなくては成立しえない。そしてその主体は客観性という科学になくてはならない性質の根幹を成りせしめている。たとえばエベレスト山の標高は8848mであるというとき、そこには海面を0とする基準がある。この例には重要な示唆が含まれている。すなわちその8848mという距離は海面にいる主体を前提としているものであるということだ。物理をかじった人なんかは「いやいや距離なんて相対的なものじゃないか」なんて反論するかもしれないが、そういう人は相対性という性質が主体が前提としていることを忘れている。相対性という性質はあるものとあるものの比較によって得られる性質に他ならないが、このときどちらか一方に主体の存在がないと意味を持ってこないからだ。 相対性理論なんてのも同じことだ。よく相対性という言葉に踊らされて勘違いする人がいるが、相対性理論において主体が存在しないということはない。あくまで物理法則に共通性があるというだけだ。 さて話がそれたが物理法則にしろ何にしろ科学には主体というものが前提とされている。そしてそれは比較というネットワークを通じて客観性の源になっている。 (唯一主体が存在しないのは何もものがない世界だ。ものとは物ではない。存在自体、時間さえもない。宇宙が生まれる前といってもいいかもしれない。数学Aで習った記号を使って分かりやすくいうと、0ではなく、φだ、といったところか。この世の存在をすべてスカラーに写像する変換があったとしてそのうえでこの世を集合という数学的事象で表すとしたらの話である。) とすれば主体の消滅は科学的説明を不可能にすることになる。すなわち主体が存在しなくなれば世界の記述が不可能になる。ということは死を議論することは科学的にみて意味のないことということになる。 こういってしまってはつまらないが私がいなければ世界は存在しないと拡大解釈もできるのかもしれない。だって主体がいなければ世界など意味を持たない概念になってしまうのだから。そういう意味では、世界とは主体を内包しているようで、主体に内包されていると言えなくもない。 結局小さい頃からの自分の答えは 「この世は自分がつくっているのではないか」 というものだ。 もちろんここでつくっているというのは世界のすべてを把握していてそのうえでつくっているという意味ではなく、自分が存在しなくては世界が成り立たないという意味においてである。ましてや、トンカチでたたいてつくっているのではない。 あー書くのだるくなってきてしまいました。明日はテストなのでそろそろ終わりにします。ここまで読んでくれた人どうもありがとう 笑 続き、いつかかくかもね… |