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**テストなんかしらねぇ**

2010,7,19





今日はちょっと真面目なこと書いてみようと思います。 


何の話かというと・・・政治の話w 


拙者、無知故あまりこういった話はしないのだが参議院選挙もあったし少しばかり意見を述べたいと思ふ・・・・ 


初めにいっておくと、自分自身の考え方は偏っているし、それは自分自身わかっていることである。 

そして、こういった考え方が蔓延してはいけないともおもっている。 


しかしながら、こうしたある意味「セオリーを逸脱した?」考え方が無くては、革新は生まれないし、実際これからの日本社会には少しずつ導入されていかなければならないとも思う。 




もうひとつ、自分は極端な現実主義者である。 

夢だとか倫理とかそういったものが無い人間は、実に虚しいものではあるが、それでも現実を踏まえていなければ、エネルギーの無駄。 

こういった根底が自分の行動、思想には如述に現れている。それはシンという人間を知っている人ならよくわかるであろう。 



あくまで、一大学生の拙い意見として捉えてもらいたいと思う。 



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さて今回主張したい議題は3つ 

@日本の選挙制と国民に関して 

A高齢者について 

B日本の教育と社会について 





順に話していきたいと思う。 


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@日本の選挙制と国民に関して 


今回、前回の選挙を踏まえて思ったことであるが、日本の選挙制の問題点、それは選挙が半ばGameとしての体裁を放ってしまっているということだ。 

国民の得票を得るために消費税導入を先延ばしにした小泉然り、医療公衆衛生費の増額を掲げて得票を得ようとする議員然り、力もないのに名と知名度で当選した谷亮子然り、結局選挙とはこういった「餌をもってして如何に国民という魚を釣れるかというゲーム」になっている感がある。 


いわば被選挙者の得票ゲームである。 


当然被選挙者にも生活はある。当選したかで数年分の年収(約2000万位だったか)がAll or Nothingで決まってしまうのだから彼らも大変なのはわかる。それでも、本当に国の事を考えて行動した結果があれなのだろうか? 


選挙の助成金も結局は国民の税金から回っているはず。 

そんな金を使って「近所迷惑以外の何物でもない選挙car」で市町村を走り回る彼ら。本当に信用していていいものか・・・・ 




話は逸れた。さて、このGameの何が問題なのか?と思うかもしれない。 

しかしながらそこには大きな問題があるのだ。 



それは「国民の世論が真に国の将来を考えたものではない」ということである。 


結局国民と言ったって、己がかわいい「ただの動物の群れ」に過ぎない。 

例えば「消費税増税」をある政党が掲げれば、大半の人の生活は苦しくなるからその政党は支持を失い政権は失墜するであろう。 


本当に国の将来を考える者なら、増税に理解を示すであろうがそんなに国民は賢くない。 

実際、目先の利益しか考える事の出来ない人間の如何に多いことか・・ 



(それどころか多くの若者は政治に興味さえ示していないわけだから、如何に無知なのかは言わずもがなである。) 



当然政党は国民という魚を「如何に釣り上げられるか」ということに躍起になるから、国民の世論のなすがまま、その欲の言いなりになった政策を行おうとするであろう。 




これが間違いなのである。 


別にエリート意識を格別持ち合わせているわけではないが、それでも一つ言いたい。 

「国民の平均にいつまでも迎合していては日本の未来はない」 

ということである。 


多少なり無理をしてでも、「本当に日本(とその国民)の将来を考え、知性をもって行動出来る人間が政治の方向付けをしなくてはならない」と思うのだ。 

(谷亮子を当選させるような国民が方向づけを行って本当に未来はあるのだろうか?甚だ怪しいと思う。) 




いや、もちろん選ばれた人間、いわゆる「貴族」とか言われる人間のみが政治を決めるべきだ、と言いたいのではない。 

そうではなくて、政治とか社会に関して深い思慮をもち、先行きを考えて判断できる人とそうでない人間、これらが本当に同じ重みでもって政治を支配していていいものか・・・ということを言いたいのである。 



今の時代、皆がある程度までは「←これはまぁ反論の余地があるが」平等に教育されているし、情報を得る権利も保証されている。であるからして、政治に関して学ぶチャンスは平等、その素養に応じた政治の方向付けをする権利というのはあっても悪くはない。 


結局何が言いたいのか、まとめると 

「目先の益を考えることしか出来ない国民が大半である、ということを考えたとき、その国民のなす世論にしたがったまま政治が方向付けられていては、いつまでたっても成長はない」 

ということである。 


うーむ。随分毒を吐いてしまったwww 


次の話に行きたいと思う。 



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A高齢者について 


これは、今回の話の中で最も非倫理的な考え方を含んでいる。 
而して、非常に危険な考え方でもある。 

しかしながら、一方でこういった考え方が無くては日本と言う国の全滅も考えられる。それこそ最も非倫理的なのではないか・・・ 


ふとそう思ったからこそ話したいと思ったのである。 



いきなりだが言おう。 


まず、日本は高齢者に対して甘すぎる。 

今や、国民の約4人に一人は60歳以上の高齢者であるが、単純計算をすれば数十年もすればその割合は倍になるそうだ。 

こういった状況を前にしたとき本当に今のまま高齢者に大して多大な医療費、保険費、年金を国が負担していいものなのだろうか。 


言っても彼らは財を生み出してはいないのだ。 

確かに、高齢者は大事にしなくてはならないし放っておいていいわけではない。 
しかしながら、それでは未来の子供たち、強いては我々若者の将来は大切にしなくていいのか? 

否、それは絶対異なるはずである。いや、そう思いたい。 


このまま生産年齢人口の負担が増加すれば、それこそ今の高齢者が労働時代に経験した苦難を遥かにしのぐ将来が導かれる。 



「医療、保険、年金」これらは国民の財という益を生み出すうえでなくてはならない保証である。これは間違いないことであるが、どれもみな、直接的に財を生み出すものではない。 


そして、その保証の大半が財を生み出さない「高齢者」に分配されている、という現実。何かが変である。 



@の選挙にも通ずるところであるが、政治に意欲的なのは結局若者ではなく高齢者である。 

そして、国会議員の半分近くは(よく調べていないからまぁ良くわからんがw)あと10年もすれば収入のない高齢者である。 


高齢者は正直、20〜30年後の日本の未来など考える必要もないから(失礼!)今の生活が楽になるような、簡単に言ってしまえば「目先の益」に動機づけられた、選択をするのは自明の理である。 


よって、このまま国政を「現状の選挙」によって決定してしまえばおのずと若者にとって暮らしにくい未来が帰結されるということになるのである。 



若い世代の僕らも、今一度日本の将来について熟慮し、政権を奪っていかねばならない。 


だから、いつまでも「高齢者は何が何でも大事にし、生活を保証してあげなければならない」という絶対視、これは今の時代に対しては非現実的なものであり、old-fashionな考え方に他ならないのである。 


(だから当然自分は若いうちに貯蓄をするつもりなのだが、上手くいくかなw・・・) 


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B日本の教育と社会について 


さて、高齢者、若者、皆の幸福を実現する功利主義社会を実現するためには、当然ながらその人口分布の是正を図る必要があるわけだが、こればかりはそう簡単ではない。 

そこで、今回はその是正条件のために必要な一つの試み、教育の改革に関して考えていきたいと思う。 


まず、今の日本の教育を考えたとき、そこには数多くの問題が存在する。今回は高齢化社会の解決の糸口になる問題、すなわち教育費の異常な増大を挙げたいと思う。 


現在の社会では大学進学をするのが当たり前になっており、それに至るまでの多大な教育費が家計を圧迫しているのが現実である。 


そして、その教育費が少子化を助長している。 




1.公教育の質低下にともなって中学から私立高に通わせる家庭が増えたこと。 

2・受験突破というハードルの攻略に際し、私塾という学校法人以外の教育が一般的になっているということ。 


これらの事実のみを見るにつけても、子供の教育には多大な経費がかかり、子供を作りにくくなっているのが現状である。 


しかしながら、本当に費用がかかるのは実は上にあげた2つではない。 

一番家計にとって負担になるのは実は大学の学費である。 


一般に安いといわれる国立大学でさえ年間60万。4年制の学部であれば卒業まで学費だけで240万かかるのである。 

当然入学金、受験料、諸経費etc 様々な負担が他にもあるし、私立であればこれ以上に費用がかかるのである。 



このとてつもない費用が少子化を招く一つの原因だといっても言い過ぎではない。 




ところで、教育に携わっている立場だから余計に思うのだが、本当にこれほどたくさんの人が大学に行かねばならないのだろうか? 

大学とは本来学問を究めるところであり、そこでは学生は専門技術、知識を身につけ、教授はそれを研究をする。 


しかしながら、現状の大学生、および大学に進学していく人々をみていて思うのだがほとんどの人は学問をするに足る基礎を身につけていないのが現実である。 

あまりこういうことは言いたくないのだが、VCの微積も扱えずして工学部行っても何も出来ない。そして、工学部に進学する生徒の(まぁそうだな大体だけど)7割は残念ながらまぁ、そんなもんなのである。 

そんな状況で学問をしてもその楽しさは理解できないし、扱えないから、まぁ4年間バイトやらサークルやらを延々とこなし、理解もしていないくせに単位をとり、卒業していくのである。 



ただ、別にそういった学生が必ずしも悪いということを言いたいわけではない。別に学問意外にも人間として評価されるべきところはたくさんあるし、それが唯一の価値基準になっては絶対にならない。 


しかし、大学に進学する必要は本当にあるか? 
と言われたらたぶんNoだろう。 


よくこういう人がいる。 

「大学は学問を習得するだけでなく、社会を学ぶところでもある。サークルや部活を通じて人間として成長していけばよいのである。」 


自分からしてみれば、 

こんなものは敗者の言い訳に過ぎない。 



社会を学ぶ? 

→そんなものちょっと気のきいた職場でバイトすればわざわざ高い学費を払って大学で学ばずとも身に付くものである。むしろかえって給料もでるのだ。はるかに生産的である。 

(実際うちの職場でバイトした人は1年もすればだいぶ成長しているしね。まぁもとからそういう素質をもった人間を集めているからでもあるのだが。) 






だから、まずかえねばならぬのは大学を卒業しなくては就職がかなり厳しいものになるという、非論理的な学歴主義の蔓延である。 

正直東大にいればわかる。 

職種によるが、学歴的には最強の東大生もおそらく社会でバリバリやっていけそうなのは4割以下。 


ほとんどの職業は大学で学んだ知を活かせないのが現実なのだから必ずしも全員が大学に行って専門知を学ぶ必要はないのである。 


むしろ、例えばコミニュケーションを学ぶ場を国が作り、就職予備校としての養成所を作る方がよほど理にかなっている。 


そして、本当に興味があるもの、学問をするに足る教養のあるもののみが大学に行くようにした方が社会的な生産性は遥かによい。 





要するに云いたいことは「大学全入による教育費用の無為な高騰を避け、子供を作りやすい社会にする」べき、ということである。 






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あぁ長くなってしまった。 

きわめて現実的、そして偏った考え方だったと思う。 

別にこういった考え方に迎合してほしいとも思わない。 


しかしながら、なにか、どこかで妥協をしなけらばならないのは確かなのである。








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